「シェア」という言葉が日常に溢れています。
ルームシェア、シェアオフィス、SNSの投稿をシェアする、料理をシェアする、などなど。
「シェア」という言葉を調べてみると、以下のような説明が出てきます。
1.共同でもつこと。共有。
2.分けること。分配。分担。
3.市場占有率。占拠率。占有率。その企業の商品の売上高が、その商品分野全体の売上高に占める比率。
前述したシェアの例は、おおよそ1.とか2.の意味で使われているんだろうと思います。
でもこうして改めて見ると、1.と2.の意味は、微妙にニュアンスが違うような。。。というより、むしろ正反対のことを言っているような気さえします。1.と3.の内容になるともっと分かりやすく、相反する言葉であるように思います。
片や、時間や物を共有する、共同でする。
片や、物や場所を分配する。その結果そのバランスが各々の利益に反映される。
このような和製英語?的な使われ方をしている言葉は、いろいろな意味をはらんでいて、たかが言葉とは言え、意外と無自覚に使ってしまっていることにとても危ういなと思います。
その語感やイメージに踊らされて、本当にそれが良いことなのか、自分にとって必要なことなのか、判断が鈍ってしまう気がするからです。
シェアするということは、前提としてその対象物や人が集合していることが原則です。
一人だけだと物理的金銭的に困難なことが、人数が集まると可能になったり、ずっと楽しくなったりする。
以前勤めていた設計事務所も、複数の事務所でひとつのオフィスをシェアし、複合機やネット環境、業界紙、膨大なカタログやサンプルを共有したり、日常的に情報交換がされていたりしました。
そういうポジティブなシェアは、合理的だし素敵です。
一方で、個の不十分さを補おうと何となくシェアする、という状況も往々にあると感じています。
例えば、何か行うという場合に、自分一人だと動かないが、人か集まると何かが起こるのではないか、と言ったような無責任な感覚です。確かに人が集まると一人では起きないことも稀に起こるかもしれません。
でも、その集まる個が不十分で良いでしょうか。
突き詰めた時に、不十分がいくら集まっても十分にはならない。
シェアという言葉に、緩さを感じて敬遠してしまうのは、自分の今の状況をあらわしているのかもしれません。
シェアこそ、明確な個、役割や目的があってこそ、その可能性が発揮される。
以前は何となく憧れもありましたが、個人で活動している今、そのことをはっきりと自覚しています。
シェアするに値する個になること。
それを持ってきちんとひとつの個として居られるようになった時に、
本当に素敵な「シェア」が出来るようになるのだと思っています。