ずいぶん前に鎌倉を訪れた際、「門」という純喫茶にふらりと立ち寄りました。
昔ながらのいわゆる喫茶店。入った瞬間から居心地が良すぎて、今でも鮮明に覚えているほどです。
なぜそれほどに印象に残ったのか。床壁天井に貼られている木のぬくもりのためか、はたまたちょうど良い暗さか、ソファーのクッションか、過不足の無いマスターの接客か、理由はいろいろとありますが、その中でも一番なのは、そこにあるモノのスケール(大きさ)の絶妙さ、だと思っています。
椅子テーブルの高さ、大きさ、グラスやカップの大きさ、形全てが、チェーン店やスタイリッシュなカフェのそれよりかなり小さいのです。
小さいのですが、隣席との距離や天井の高さなど空間全体のスケールはそれに呼応し、不快でもアンバランスでも無いように、絶妙にしつらえてあることに気がつきます。間口に対して奥行きが長い店内で、入口付近は賑やかなスペース、中ほどは客の動線スペースがメインながら、数段分あがった床とトンネルのように角が曲げらた天井に包まれたスペース、奥にいくと天井と床の関係はそのままに平面的に広がった落ち着いたスペース、その先にささやかな坪庭。
このようにスケールの小さい中にも変化が多様で、実に濃密な空間になっていました。
西欧の文化の影響を強く受けてきた日本は、天井が高く窓も大きく広く開放的な空間が高級で良いものという感情を持つ人が多いのではないかと思います。
しかしそれは、身体も土地も大きい西欧に適応したスケールです。
日本人の体型や土地が西欧と違うように、日本人が心地よいと感じるスケールもまた違うはずです。
この喫茶店のような空間に身を置くと、そのことを痛感させられます。
昔の民家や茶室など、築年数は古くとも、その空間の質に感動し、逆に新鮮に感じてしまうのは、いかに普段均質化された空間にいるかの裏返し。
もちろんスケールが大きいことで素晴らしい空間もたくさんあります。一概にスケールを小さく落とせば濃密になるというわけではありませんが、もう少し、用途によって、意識的に考える必要があるように思います。総じて、個人的には、今のスタンダードより小さいスケールの方が心地よく感じることが多いです。
時代背景や流行り廃りによって、評価されるものの移り変わりは激しいですが、原始的な人間の感覚や感情は、遠い古代からあまり大きく変わらないように思うのです。
洋服や技術などは、軽やかに変化し、常に流動的であることが魅力ですが、建築は、原則として「不動のもの」という性質上、いつまでも変わらない何か芯のようなものになり得るという面がまた魅力的です。
加速度的に変化する世界において、建築こそ、確かな実態を伴い、人にとって拠り所となる、最後の「砦」のような存在だと考えるのは、行き過ぎでしょうか。
残念ながら、「門」は閉店してしまったようですが、このような空間体験をもっともっとしていきたいなぁ。