最近、物の「価値」について考えることがあります。
私たち設計事務所の業務は、何か実態としてのモノの対価としての報酬を貰っているわけではありません。
実態としては見えない、「設計」「デザイン行為」という業務、つまり「サービス」の対価として報酬を頂いています。
厳密に言えば、設計図や公的書類を作成する、という具体的なモノも提供しているのですが、それは得てして付帯的な行為と見られがちです。
物体としての「モノ」でないものに対価を払うという感覚が少ないのは、日本人の国民性でしょうか。設計事務所の役割やそれに対する評価が、理解されにくいと感じることがあります。
個人の自発的な「サービス」が業務としてではなく、付帯行為として当然であるという認識は、かく言う自分自身にも知らぬ間に染み付いていることです。
物体としての「モノ」でなく、当然とされている「サービス」を売り物にするというのは、考えただけでもとてもややこしい匂いがする職業だなぁと、気がついたのは、この業界にどっぷり浸かってしまってからでしたが(笑)
もちろん、建築士という業務独占の国家資格があり、日々初めての状況と向き合い、学んでも学んでも追いつかない知識を必死で追いかけ、経験値をコツコツと積み重ね、伝えるための表現方法を深め、云々、この仕事の価値に対しての努力をし、自覚と誇りを持っていることは紛れもありません。
ただ、世間様の認識も嫌という程分かる。。
では、私たちが、少しでも優位的に与えられる、もしくは与えなくてはいけないものは何であるのか。
あ、ここで言う「もの」も物体としてのモノでは無いことが前提なのですが。
幼稚でありきたりな表現ですが、そのひとつは、「わくわく」なのではないかなということです。
私は、何故だか建築が好きで、住宅やその中で行われる生活に興味があり、ほっておいてもわくわくするし、ずっと考えていられます。
でも多くの人にとって、私が他の分野に対して無自覚なように、建築に対してそこまでの熱量を持っていないことが普通です。快適で不足が無ければよい、という認識です。主人公ではなく、物語の背景なのです。
ただ、無自覚だけれど、生きる上で必要不可欠である以上、住宅などの建築と自覚的に向き合わなければならないタイミングがほとんどの人にいつかは訪れます。
そんな時に、今まで無自覚だった人が急に、建築に興味を持つはずも無いですよね。
でも、その性質上、雑貨のように気軽に買い替えが出来るものでもなく、何を選んでよいのかという判断基準も出来ないままに、結果、広告や世の中の価値基準に乗っかるようにして、この大きな選択を越えていくことになるのです。
「わくわく」は、とても個人的な感情です。
自分の中の好きなこと、心地よいこと、楽しいことに反応すること。それはその人自身であるということです。
無自覚である、という状態から、「わくわく」という自分自身の感情を自覚してもらうこと。
私たちが提供出来る価値はそこにあるような気がしています。
そのためにもまず、その人や生活や環境などあらゆる側面について、本質的な分析を試みて、「わくわく」のピースを設計の中にちりばめる。
生活とか仕事とか家族とか、ちょっと自覚的に向き合ってみればもっと楽しく、何よりクリエイティブだ、ということを伝えること。
モノは古くなるし飽きてしまうかもしれない、けれどある瞬間に本気で考えた「わくわく」はきっとその人にとってそんなに大きく変わることではないのではないでしょうか。
そんな「わくわく」に気付くきっかけを作り、具現化していくこと、それがきっと私たちの価値であり、それが可能になるのであれば、その対価に胸を張っていられるような気がするのです。