先日、阿佐ヶ谷にあるドーモアラベスカという場所で行われた会に参加しました。
象設計集団という設計事務所が、今までに設計した保育園や幼稚園などの子供のための空間をまとめた本の出版報告会という形でしたが、その中のレクチャーがとても面白かったのでメモがわりに書きたいと思います。
ハードを設計した設計事務所、それを実際使っている現場の保育の園長、子供の教育を研究している研究者、という立場の違う3者による、子供と建築の関係性や重要性などをそれぞれの立場から論じるといった内容でした。
私は建築的な内容に興味を持って参加したわけですが、もちろんその部分も大変勉強になりましたが、むしろそれ以外、特に研究者の立場の方のお話がとても興味深いものでした。
正直なところ、初めは、個別性が強く複雑な子供の教育や居場所の考え方について、一般化し学問の研究の対象にすることへの懐疑心に近い気持ちがどこかにあったのですが、その感情は見事に打ち破られました。
特に印象に残った内容、子供の行動の分析について引用させて頂くことにします。
子供が行動するときの流れとして、
「起こしたいこと」→「起こしたこと」+「起きちゃったこと」→「起きたこと」→「起こりそうなこと」
そしてまた始めの「起こしたいこと」、という循環を繰り返しながら、様々なことを行動し学習していくということです。
例えば、自分が行きたい場所の手前にひとつの溝があるとします。その溝を越えなければ行きたい場所に行けないので、溝を越えようと考えます。そうだ、橋のようなものを渡してそこを通ればいいんだと気がつき、手近にある板を持ってきて溝に架け、その上を渡ろうとします。でも、選んだ板の幅が細く、途中でバランスを崩し落ちてしまいました。幸い溝は浅かったので、落ちたところから何とか這い上がって無事行きたい場所にたどり着くことが出来ました。ここまでが「起きたこと」。ここまででとりあえずの目標は達成出来たわけですが、後日また同じような場面に出くわすとします。その時に、さて前回は板から落ちてしまったので苦労したのだが、今回も同じことをしたら同じことが起こりそうだぞと思う。そして、そうならないためにはじゃあ今度はどんな板を選ぼうか、と考えるようになります。
この行動の繰り返しが、「学習」なのだということです。
私が浅い理解で考えたつたない例えなので、完全に正しい表現かどうかは怪しいですが、おおよそこのようなことだと思います。
話しの中では、この行動パターンのサイクルの中で一番大事なのは、「起きちゃったこと」なのだと話されていました。
人間何かをすれば必ず、自分が考えていたこと以外の、外因的もしくは内因的な理由による現象が付随して起こってくる。
それは誰もが経験的に理解してきたことで疑う余地はないと思いますが、それにどう対処していくか、が学習の真髄だということです。
学習とは、つまり、教えられるということでも学校教育という枠組み内で行われることだけでもないということ。
もっと広く、人間が生きて生活していく中で、行われていくべきものだということです。
私の専門である建築で例えるならば、現代の住宅は、その「起きちゃったこと」、を制限しすぎているのではないか、と危惧されていました。安全で快適な住まいは、人間が目指してきたあり方ですが、それによって子供達は学習の機会である「偶然性」から遠ざけられ、極端に言うと、守られているというのと裏腹に、守る術を得る機会を奪われている状態になってしまっているのです。
建築に必要な偶然性、それは意味付けされていない場所に多く起こる可能性が高い、という言葉も示唆に富んだものでした。
他にも短い時間の中でいろいろと興味深いキーワードがありましたが、これ以上は割愛します。
研究とは、異分野にも通用する核となる考え方を提示することなのだと感じました。
特に、建築設計という分野は非常に具体的な作業なので、一度その対象物の核に向き合い、本質を理解し自分なりに咀嚼した上で、具体的な設計に落とし込む。私が意識していたのは正にそのようなことだった筈であるのに、狭い範囲の具体や現場に固執しすぎていたことにも気付かされました。
こうやって一見異分野に見えることにも、全て繋がるヒントがあるというのは、建築というものが、人間の根本に近い所にある分野だからなのだと思います。
もっともっとアンテナを広く、心をフラットに持ち、大人である私こそ「学習」していかなければと思ったのでした。
※関東学院大学教育学部こども発達学科専任講師、久保健太氏のお話を引用させて頂きました。