大阪の現場が始まりました。
黙々と頭で創造し設計図を描く作業も楽しいのですが、その頭を悩ませた設計が、実態となって現れてくる現場もまた違った楽しさがあります。
もちろん想像していたようにうまくいかなかったりと大変なこともありますが、自分の手の中から離れ、完全にはコントロールしきれないその距離感と不透明感が、良いも悪いも現場の醍醐味だと思っています。
せっかく関西に行くのだからと、その打合せ帰りに京都に立ち寄りました。
とんぼ返りで東京に戻ってしまういつもと違って、久しぶりにお寺の境内をゆっくりと歩き、打合せでヒートアップした頭と心を整理するよい時間でした。
心を落ち着けたり、整理したり、自分と向き合うための場所として、このような空間は最適なんだろうと思います。
神に祈るという目的と、そのために作られた簡潔かつ明瞭な形、それを構成する簡素で原初的な素材と仕組み。
目的から成り立ちまでに無駄が無く、実にシンプルです。
そのシンプルで静かな佇まいの前に、それまでの雑音がおさまり、心の向きを無理の無い方向に変えてくれるような気がします。
シンプルが故に、その空間を維持し守るためには、少なくない手間と労力がかかるであろうことも容易に想像がつきます。でも目的が明確なので、その目的のために人は労力を惜しまないし、それによって心も清められるような行いですらあるということ。
その習慣こそが人を作る、というのはこういう状態なのではないでしょうか。
お寺のような宗教建築は特殊なので、一般的な私たちの暮らしを支える現代の住居に同じようなことを求めるのは厳しいものがありますが、このような明確な佇まいを目の当たりにすると、いかに無駄で溢れているかを突きつけられるようです。
個人の趣味趣向、過ぎた安全安心、作り上げられ刷り込まれた必需品など、ビジネスのために作られた贅肉が、その身体を重くしているのではないでしょうか。
もっと快適に、もっと便利にと、変化してきたことは素晴らしいことですが、科学の発展のみに焦点が当てられた現状に、本当の「豊かさ」みたいなものが少なくなっているように思うのです。
実際に、無くなっているというより、その分厚い贅肉のせいで、感じられなくなっている、という方が正しいかもしれません。
住まいだけではなく、現代社会のその他いろいろなものに当てはまるような気がしています。
贅肉を減らし、その軽くなった頭と身体を使って、考え動き働く。
サプリメントやジム通いをするより、窓を全部開けて掃除をし、手をかけて料理を作る、そんなシンプルな考え方が、生き方としてずっと美しいように思います。
という私自身がここのところ、贅肉を蓄え身も心も鈍くなっているように感じていたので、益々姿勢が正される思いでした。
どうやったらうまくやれるか、評価されるか、ではなく、いいものを作るためにはどうすればよいのか、という思考にシンプルに立ち返らなければなぁ。